福島県 阿武隈高原 川内村のカフェ・ダノニーのブログ。東日本大震災で被災、原発事故により避難中。

4年の時間が流れ、また3月11日がやってきます
被災されたすべての方々に、心よりお見舞い申し上げます。
そして、川内村にあった小さなカフェのことを忘れずに訪れてくださった皆様に、お礼申し上げます。

どれだけの時間が経過しても、あのときの記憶を忘れたり、なくしたりすることはできません。
パソコンのデータのように、よい思い出で上書きして消去する、そんなことができたらと思います。
毎日を一生懸命に生きて、これからなにができるのかを考えています。

思い出は積み重ねです。
あの日があるから、いまがある。

そう思わないと、毎日がとてもむなしいです。
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東大出の人に負けないように
震災のとき、食器が次々に落ちてくる食器棚を支えていた次男。
余震の中でもぐうぐうと寝て、菓子を食べ、不安な様子を見せなかった彼は、高校一年生になりました。

もとから首都圏への進学を予定していたものの、中学三年生からの転校は受験には厳しい条件になりました。
教師に媚を売ることができない彼は、内申点がとれずに惜敗。
なにより、山奥の田舎から都会に進学するには、勉強の質や量が不足していました。
でも、彼は、「受験校の選び方に、後悔はしていない」

震災被災地だったことで、一年間、塾の受講が無料となったので、難関校への進学コースでみっちり勉強できたことが今の彼の財産です。

難しい学校に入り、社会に出ていく人たちは、子どものころからの行動や生活が異なっています。思考パターンが違うのです。
このことは身近に接して、一緒に生活してみないとわかりません。首都圏に進学させたいと考えたのは、息子たちのもっている個性をどこまでものばしてやりたいと思う親の願いでした。
次男は、個性豊かな受験生たちと一緒に学び、こころを許せる友人もできました。
次男にとって「トモダチ」というのは、とても重い意味をもっていて、一緒に話をしたり、遊んだりするだけの存在ではない、もっと深い信頼や尊敬の思いがあるそうです。

一緒に学んだ友達は、難関校へ行きました。
三年後、また、挑戦のときがきたら、それぞれがそれぞれの人生をかけて、競いあうようになるでしょう。

無理をして勉強させなくても・・・・
親のエゴじゃないか・・・
高望みさせて・・・・

そう思われてもしかたがないかもしれない。
でも、原発事故、そしてそれからのいろいろを見てください。日本の社会を動かしている頭のいい人たちと戦うには、同じ土俵で戦えるだけの頭をつくらないといけないんです。なにが起こっても、体ひとつでどこまでも逃げて、もっていけるのは健康な体と考える頭だけ。
自分で考えて行動できる大人になってもらいたいと願っています。
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不登校だった息子が大学に無事進学
不登校で一年休学したこともある息子が、なんとか大学に進学しました。
震災、そして原発事故、避難生活と最悪の受験環境の中、息子ふたりが受験をするというとんでもない状況になり、親子でヘトヘトな一年間を過ごしました。

田舎でそこそこの成績だったものの、進学してからは劣等感にさいなまれ、自信を失い、ひきこもりになってしまった息子。
4歳で経験した田舎暮らしは、成長の過程で、過酷な生活を強いるものでしかなかったのかもしれないと悩んだこともあります。
どんな経験も自分の個性として受け入れていって欲しいと願っていたのですが、幸い、良い同級生に恵まれ、なんとか最後まで受験を乗り切ることができました。

生まれたときから、もののしくみ、ものづくりに興味を持ち続けている息子が、立ち直るきっかえになったのは「数ミリの折鶴」です。
小さな小さな紙を折り、鶴をつくった。紙の厚さを考慮し、シャーペンの先と指先で折ったのを見て、担任の先生が「この子はなんとかしたい」
ものづくりなら誰にも負けないという自信をはぐくんでくださったのでした。

まるで別人格になったように、ニコニコと大学に行く息子を支えているのは、高校三年での課題研究でつくったローバー機。
チームメイトと一緒につくりあげ、高校生でありながら大学のチームと混じって、伊豆大島無人観測ロボットシンポジウムに参加したことです。
このとき、自分のようなものが参加していいのかと不安になり、とうとう現地には行けなかったけれど、計算や整備で遠方から支援していました。
「まるでアポロ13のケン・マッティングリーみたい(風疹でアポロに乗れなかった宇宙飛行士。電力節約のシュミレーションをしてサポートしたヒト)」

ローバー製作は、息子の最初の一歩です。

ロボコンマガジン 2012年1月号
http://www.ohmsha.co.jp/robocon/archive/maga/1201/pdf/79_016.pdf

http://www.ohmsha.co.jp/robocon/archive/2011/12/robocon-magazine-20121.html

子どもの頃から愛読しているロボコンマガジンに、学校名と自分の名前が掲載されたんですから、うれしかったと思います。

論文のデータベースに掲載されています。


同じチームのメンバーのひとりは、推薦枠でそのまま大学に進みました。
一年のときからちゃんと勉強してれば、チャンスはあったのになぁ。
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川内村で震度5弱



関東、店長のいる鎌倉市ではまったく揺れを感じませんでした。震度1かどうか?



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オホホの罪
日本人のほほえみは、外国の人からみると「不可解」だと言われます。

「子どもが死んだんです」と、にこにこしながら話す母親。
戦争中、戦死した息子を人前でほめたたえ、「母は笑って・・・」といったところでしょうか。
人前で感情をあらわにしない、気持ちを秘めるという文化も、文化が異なれば、
「子どもが死んだのに笑うのか!」
心の病を疑われかねません。

意味もなく、交際上のおきまりのように笑う。
いままでは、ごくあたりまえのこととして「日本人の笑い」とつきあってきました。


震災後、ニュースやドキュメンタリー番組などで、これでもかといったように悲惨な現場映像が出されます。
「まぁ、家が、人が流されていく、ハハハハ」
「ホホホ、大変ですわねぇ、ホホホ」

いわば、あたりまえのように、おあいそうに、つけくわえられる笑い。
わたしには、どうしても許せなくなりました。

無意識に出ている笑い、悪気がないことはわかっています。
でも、被災して、いままで住んでいた地域を離れ、なじみのない土地で暮らしていると、この「笑い」というのにがまんできなくなる。

同じように、涙を流してなくというのにも抵抗があります。

昨年、避難してきている福島人として話をさせていただく機会がありましたが、そのときに、
「大変でしたね」と涙を流してくれた人もいて、
「ありがとうございます」とこたえながらも、
「自分のことでもないのに、よく、こんなに涙を流せるなぁ」って、心の中がどんどん冷えてしまって。

世の中をななめに見てしまいがちな私は、素直な優しい心を持っていないから、純粋な方と交流するのが苦手なだけかもしれませんが、
「同情するなら・・・・・」
何年か前のドラマのセリフ、ほんと、いまの気持ちにぴったり。
「そんなに簡単に同情しないでくれよ」って言いたくなります。


20歳の頃、私は新宿の裏にある小さな洋裁学校に通っていました。
高齢のおばあちゃん先生が、わずかな生徒を相手に個人レッスンしてくれるようなところです。身寄りがなく、ひとり暮らしをしている先生の楽しみは、中国残留孤児の肉親さがし。

あのころは、戦争末期に孤児になった方が肉親をさがして来日し、孤児になった状況や再開の様子を報道していました。先生はそれを見るのが大好きで、
「今夜も残留孤児のを見て、泣いて、寝ようっと」
辛く苦しい戦後を生きた方の人生を見聞きし、涙を流すことが、ささやかな慰めになっていたのでしょうか。

どんなに辛く、悲しいニュースであっても、

「自分には関係ない。興味もない」
「まぁ、大変。自分でなくてよかった」
「かわいそうねぇ、あ〜大変だ、大変だ」
無関心だったり、おひゃらかしたり、楽しんだり。

「涙を流しながらも、心の奥ではドラマを見るように楽しんで見ている人がいるな」って、思ってしまいます。


人の悲しみや苦しみを、どうやって他人が共感できるんでしょう。
「同情するわ」なんて、かんたんに口にしちゃいけない。
震災や、原発事故や、津波のあと、いろいろな言葉が色あせ、安っぽく、しらじらしいものになってしまいました。

「まぁ、かわいそうに」
テレビの画面に向かって言っているうちは、安全で、平和な世界にいながら、まるで映画を見ているように悲劇を見ている傍観者です。

いつ、どこで、画面の向こう側に行ってしまうかもしれない。
それは明日かもしれない。
3.11のあの日、テレビのこっち側から、あちらに行ってしまった、
当事者にしかわからない、痛みです。
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地震 震源に注意
tenki.jp

tenki.jp

初詣から帰ってきたら、いきなり地震。
最初は小さく揺れ、そのうちに大きくうねってきたので、これはいよいよ・・・・・と思いました。
震源を見ると、東海のきわどいところです。これだけ離れているのに、震度4がでています。

地震は3.11で終わったわけではありません。
カテゴリ:店長の部屋 | 17:39 | comments(0) | trackbacks(0)
I LOVE KAWAUCHI I LOVE FUKUSHIMA
ダンナと子どもたちは恒例の鐘突きに行きました。
鎌倉円覚寺の除夜の鐘をつくのが、わが家の毎年の行事です。もうすぐ今年も終わり。すべての厄を鐘の音とともに払い、新しい年を迎えたいと思います。



「音楽を聴いて涙を流したのは はじめてだよ」

「I love you & I need you ふくしま」猪苗代湖ズ をネットで聴いていたダンナ。

福島出身のアーティストでつくったバンド、猪苗代湖ズ。みんなみんな、がんばってたんだよなぁ、そしてそれが3.11ですべて失いつつある。
瀕死の福島を、どんな思いで見つめたらいいのか、わかりません。

「福島が好き」「川内が好き」
この思いだけはとめられない。

I love you ふくしま、I need you ふくしま

I love you かわうち、I need you かわうち
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12月11日がもうすぐ終わります
12月11日。
あれから9ヶ月が経過しました。

震災のこと、原発事故のこと。いつもの生活の中では考えないようにしています。考えてもどうにもなりません。自分の力でどうにもできないことを、くよくよと考えてみても、暗い気持ちになるだけですから。

カフェ店長は、就職しました。
丸の内でOLをやっていたころから、20ウン年ぶりにOLになり、事務職で働きはじめています。

15年前に川内村に移住したとき、お金がぜんぜんなかったけれど、夢だけはいっぱい持っていました。
まだ私たち夫婦も若かったし、長男は4歳、お腹の中の次男は引っ越しから半月後に生まれて、毎日が新鮮でした。

3.11。都会に戻った私たちは無一文の状態で、夢すらなくしてしまいました。人間関係や家、薪などが田舎の資産です。それがあれば食べていけます。
暮らしの資産を福島に置いたまま、都会に戻っても、どうしようもありませんでした。

お金のために、時間を切り売りする、そんな暮らしになりました。

川内村の自宅が、いま、静かに朽ち果てていく音が聞こえるように思います。あの日のまま、人が暮らさない家は静かに死んでいくのです。

福島から避難している人としか、本音で話ができません。
「補償もらってるんでしょ」とか、「援助があるはず」と、人は言います。自分の守ってきたもの、暮らしのすべてが崩壊していく音が聞こえるもの同士でないと、わかりあえないように思います。

「がんばって」と言われるのが辛いです。
「大丈夫、元気ですよ」と答えるのがイヤだから。

村に残ってがんばっている人も、避難している人も、それぞれが、それぞれの立場で苦しんでいます。
放射能は見えないし、どんなものなのかわからないのですから。
それよりも、きょうの暮らしをどうするかで、みんなせいいっぱい。



いろいろな人と話をしていて、気づいたことがあります。
体が弱い人、持病のある人は、放射能について真剣です。体の不具合を抱えながら、病弱な体をいたわりながら生きる辛さを知っているからこそ、病気未満のなんとも訴えようのない体の不具合に翻弄される人生を想像できるからです。

体が丈夫で、病気をしたことがない人とは、病気や不具合とともに生きる人生を共感できないでしょう。
なにもなかったことにしたい。
わたしだってそう思いたいです。

5年後、10年後、どのようなことが起こるのか、誰にもわかりません。


でも、福島は、きょうをどうやって生きていったらいいのか、それすら考える余裕がない人がいっぱい。
明日のことを思うゆとりがないんです。



9ヶ月経ちました。
どうして、みんな、放りっぱなしなんでしょうか。
国が総力をあげて立ち向かうべき大きな問題なのに、川内村のような小さな自治体の、それぞれのがんばりにまかせっぱなしなんですか。村長も、役場の人も、疲れた顔をしています。被災した村の人の怒りは、身近な地域の人に向けられがちですが、本当の敵はもっと遠くで、安全なところにいるエライ人達です。どこの自治体も、公共機関も、被災した人の対応に追われる人たちは過労で倒れそうになってます。被災者を助けるのも、被災者です。

避難している人たちも、避難先の自治体がひねりだした予算で助けてもらっています。自治体によって、対応もなにも違います。なにもかにも、現場まかせだということです。
そしてこれが福島だけでなく、他の地域でも同じように見捨てられたまま。


震災も、原発事故も、津波も、自分のことではなくてよかったと思っている方、安心してはいけません。
いつもは「政府なんてさぁ〜」といって不満を言っているアナタ、それでも「お上がなんとかしてくれる」ってどこかで思っていませんか。
なんにもしてくれませんよ。誰もアナタを助けてくれない。それがこの国の実態だということを、忘れないで欲しいです。
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11日金曜日 8ヶ月経ちました


あれから8ヶ月が経ちました。
11月11日 あのときと同じ、11日の金曜日です。

ひっきりなしに大きな余震がやってきて、地鳴りと揺れでろくに寝ることもできなかった夜。つけっぱなしのテレビから、津波の被害、原発の様子、住宅地の液状化、自宅に帰れない人たちの様子、ありとあらゆる混乱の様子が次々と映像で流れていました。



目の前で、カフェの店舗が土砂に押しつぶされていきました。
ラジオからは原発の事故についての第一報が流れ、展開のよめないドラマがはじまろうとしていました。



8ヶ月。
これからどうなるのか、まだなにもわからないままです。
写真は震災から3日経過したカフェ・ダノニーの店内。
カテゴリ:店長の部屋 | 23:28 | comments(6) | trackbacks(0)
カフェ店長の名残り






カフェ店長の習慣がいつまでも残っています。
ケーキを食べると、プレートの盛りつけ方が気になり、参考写真を撮影してしまうし、メニューやロゴといったものも「お店の参考に」とメモ。

もう、カフェ・ダノニーは・・・・・かもしれないのに。

それでも、おいしいものや素敵なものを見たら、メモしてしまう。店長の習慣です。


震災後、エスニック料理を食べるのが苦手になりました。首都圏ではインド料理の店がものすごく増え、どこの街角にも本格的なインド料理店があります。インド人のお兄さんが「どうぞ〜」と手渡してくれるチラシを見ると、ダメなんです。ものすごく気分が悪くなって、体の具合が変調してきます。
これっていわゆるPTSDの一種でしょうか。

ハ○スのカレーならつくれるのですが、本格的なカレーはつくる気になれませんし、食べたくない。

だから、外食のときは「沖縄料理」を選ぶことが増えました。島焼酎も好きです。
カテゴリ:店長の部屋 | 14:31 | comments(0) | trackbacks(0)
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