福島県 阿武隈高原 川内村のカフェ・ダノニーのブログ。東日本大震災で被災、原発事故により避難中。

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オホホの罪
日本人のほほえみは、外国の人からみると「不可解」だと言われます。

「子どもが死んだんです」と、にこにこしながら話す母親。
戦争中、戦死した息子を人前でほめたたえ、「母は笑って・・・」といったところでしょうか。
人前で感情をあらわにしない、気持ちを秘めるという文化も、文化が異なれば、
「子どもが死んだのに笑うのか!」
心の病を疑われかねません。

意味もなく、交際上のおきまりのように笑う。
いままでは、ごくあたりまえのこととして「日本人の笑い」とつきあってきました。


震災後、ニュースやドキュメンタリー番組などで、これでもかといったように悲惨な現場映像が出されます。
「まぁ、家が、人が流されていく、ハハハハ」
「ホホホ、大変ですわねぇ、ホホホ」

いわば、あたりまえのように、おあいそうに、つけくわえられる笑い。
わたしには、どうしても許せなくなりました。

無意識に出ている笑い、悪気がないことはわかっています。
でも、被災して、いままで住んでいた地域を離れ、なじみのない土地で暮らしていると、この「笑い」というのにがまんできなくなる。

同じように、涙を流してなくというのにも抵抗があります。

昨年、避難してきている福島人として話をさせていただく機会がありましたが、そのときに、
「大変でしたね」と涙を流してくれた人もいて、
「ありがとうございます」とこたえながらも、
「自分のことでもないのに、よく、こんなに涙を流せるなぁ」って、心の中がどんどん冷えてしまって。

世の中をななめに見てしまいがちな私は、素直な優しい心を持っていないから、純粋な方と交流するのが苦手なだけかもしれませんが、
「同情するなら・・・・・」
何年か前のドラマのセリフ、ほんと、いまの気持ちにぴったり。
「そんなに簡単に同情しないでくれよ」って言いたくなります。


20歳の頃、私は新宿の裏にある小さな洋裁学校に通っていました。
高齢のおばあちゃん先生が、わずかな生徒を相手に個人レッスンしてくれるようなところです。身寄りがなく、ひとり暮らしをしている先生の楽しみは、中国残留孤児の肉親さがし。

あのころは、戦争末期に孤児になった方が肉親をさがして来日し、孤児になった状況や再開の様子を報道していました。先生はそれを見るのが大好きで、
「今夜も残留孤児のを見て、泣いて、寝ようっと」
辛く苦しい戦後を生きた方の人生を見聞きし、涙を流すことが、ささやかな慰めになっていたのでしょうか。

どんなに辛く、悲しいニュースであっても、

「自分には関係ない。興味もない」
「まぁ、大変。自分でなくてよかった」
「かわいそうねぇ、あ〜大変だ、大変だ」
無関心だったり、おひゃらかしたり、楽しんだり。

「涙を流しながらも、心の奥ではドラマを見るように楽しんで見ている人がいるな」って、思ってしまいます。


人の悲しみや苦しみを、どうやって他人が共感できるんでしょう。
「同情するわ」なんて、かんたんに口にしちゃいけない。
震災や、原発事故や、津波のあと、いろいろな言葉が色あせ、安っぽく、しらじらしいものになってしまいました。

「まぁ、かわいそうに」
テレビの画面に向かって言っているうちは、安全で、平和な世界にいながら、まるで映画を見ているように悲劇を見ている傍観者です。

いつ、どこで、画面の向こう側に行ってしまうかもしれない。
それは明日かもしれない。
3.11のあの日、テレビのこっち側から、あちらに行ってしまった、
当事者にしかわからない、痛みです。
カテゴリ:店長の部屋 | 07:59 | comments(3) | trackbacks(0)
コメント
川内では、春から帰還される方がいますね。線量は郡山より低いぐらいだとか。ただ、場所によっては高い所もあるでしょうから、一人一人線量計欲しいくらいでしょうね。このような生活は東電のせいですから、それくらい何とかならないのでしょうかね。
〜朝からカフェダノニーのカレーが食べたくなってきました。
| 富岡の原発避難者 | 2012/01/17 4:22 AM |
私はいまだに、インドカレーが食べられません。ふつうの家庭カレーもあまりつくりません。
スパイスの香りに川内を思い出して辛いんです。

帰りたいのと、帰れるのとは違います。線量だけの問題ではなく、生きていくための条件が元々厳しかった地域に、さらに過酷な条件を追加されてしまって、生きていけるのかどうか・・・

それぞれの方がそれぞれに生きていく方法を考えるしかないですね。私も今を生き抜くのに必死です。
| カフェ店長 | 2012/01/19 7:40 AM |
最近、関東方面でも地震が頻繁になっていますね。店長ご一家のこと心配しています。
先日は川内村でも震度5弱と、忘れた頃にドシンと来るみたいです。携帯の緊急地震速報の音を忘れていたのに、また思い出されて怖い思いをしました。
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うちのパパさんがある日、『もう、うちらのこと被災者、被災者って呼ばないでほしい〜』と震災ニュースを見ながら叫んだことがありました。
私も、もう憐みの目で見てほしくない、頑張ってと言ってほしくない と思う時もあります。
3月11日から、すっかり『可哀そうな人』になってしまった私たち・・・。
普通の生活をしていた日常から、被災者の生活に一変したことに、未だに慣れません。
川内村よりもはるかに便利な郡山市に住んでいますが、便利な生活には何の魅力もありません。
むしろ、心も体も何かに蝕まれていくようです。

春には家族全員で川内村に戻る予定でいますが、不安と希望が入り混じっています。
子供を持つ親としてこの選択が間違っていないか常に葛藤です。
きっと、これからもずっとこのような選択をしていかなければならないのでしょうね・・・。
親としての不安な気持ちはどうしたらよいのか・・・。
悩みながら生活する毎日です・・。
| meimei | 2012/01/28 5:47 PM |
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